『化学工学科1期生の女子学生との対談』  山田 博史

 あるとき化学工学科同窓会の20周年記念誌をいただきました。ペラペラ見ていると各代の集合写真が載っているのですが、第一期に一人だけ女性が載っていてその後は男性ばっかりで真っ黒だったのが印象的でした。先日この女性の方が名古屋大学工学部最初の女子学生ではないかという話がもちあがり(結果的には2番目でした)、これは早速ということでインタビューさせていただきました。以下は相曾治子(旧姓:森)さんとのメールのやりとりをもとにインタビュー風に再構成したものです。

 

 

山田:愛知淑徳高校ご出身とのことですが、当時の淑徳高校では理系進学はどのような感じだったでしょうか?少数派ではあるが毎年継続的にいたのか、結構珍しい事例だったのかどうでしょうか?

 

相曾:極めて珍しい存在だったと思います。淑徳女学校に1945年入学したとき、高齢の家庭科の先生、体育の先生ばかりでした。敗戦の年まで女学校で理科系の授業は殆どなく、裁縫や料理、体育の先生ばかりで「良い家庭を守ること」がすべての女性に求められてる時代です。1947年になって初めて新卒の理系の先生に教えていただきました。クラスメートのお母様に「数学ができてなんになります?」家庭科の先生には「数学や化学など必要ない」と言われたこともありしました。名古屋大学に入学しましたら「学士様なら嫁にやろか」と言うけれど、女学士はどうなんだと先生方にからかわれたりしてました。

 

山田:そのような状況で相曾様が工学部、とくに化学工学を選ばれた理由はなんでしょうか?

 

相曾:父が建築家でした。伯父たち兄も工学部出身でした。工学部は身近なものです。化学工学は面白そうと思いました。

 

山田:女子学生の工学部入学は当時珍しかったと思いますが、名古屋大学工学部に合格された(入学された)ことが新聞等で報道されましたか?

 

相曾:合格発表の日に中日新聞夕刊に「紅一点 森さん」と大きく報道されました。

 

山田:当時の名古屋大学の雰囲気は相曾様から見てどのような感じだったでしょうか?

 

相曾:「世の中は男性しかいない」そんな感じです。淑徳では大学入試を全く考えない状態の授業でした。1年浪人して河合塾で学びました。こんなに面白い授業があるのかと感動したのを覚えています。化学工学科に入学しましたら河合塾で一緒に学んだ男性が2人いました。河合塾でもほとんど男性ばかりでした。

 

山田:河合塾で学ばれたことが、大きな役割を果たしたように感じました。河合塾での勉強を教えて下さい。周りには女子も何人はいましたか?

 

相曾:4月はじめ,他にもう1人女性がいました。少しずつ増えて数人になりました。当時河合塾は桜山にありました。男性もそんなには多くなかったです。淑徳高校3年での授業 数学は2学期が終わっても教科書の3分の1進んだばかり。のんびり。ゆっくり。河合塾でのハキハキムードで目が覚めた感じでした。前方の席を取るため早くに出かけなければなりません。いつの間にか私たちの(もう1人の女性との)席を他の男性が取って下さるようになりました。その女性と一緒に名大工学部を受験しましたが残念ながらその方は不合格でした。淑徳の同期では私以外、法政大学と芸術大学へ各1名進学。4年制大学への進学は全部で3名です。大学進学そのものが少ない時代でした。

 

山田:相曾様は名古屋大学として2番目の工学部女子学生ということになりますが、初期の女子学生であるということに関して学校側から何らかの期待は感じられましたでしょうか?また、なにか配慮のようなものはありましたでしょうか?

 

相曾:特に期待されていたとは感じませんでした。理系女性全員で10名足らず。体育の時間を一緒にしましたら更衣室を考えてくださいました。トイレには難儀しました。使うように言われたトイレが教室から遠くて。極力、水分をとらないようにしていました。

 

山田:ご自身が初期の工学部女子学生であるということに関して何か意識するようなことはありましたでしょうか?

 

相曾:私自身は男性と特に意識することはなかったのですが、何時もどこにいても視線を感じていましたから、女性として見られていたと思います。

 

山田:工学部で専門を学ばれたことから、卒業後はどうされましたでしょうか?

 

相曾:恩田研で助手を3年間勤めて退職、相曾と結婚しました。恩田先生とは不思議なご縁がありました。名大工学部設立の時、恩田先生、渋沢総長、愛知県庁の父が文部省へ行ったこと、日比谷の松本楼で食事したなど恩田先生から聞きました。工学部は名古屋城そばの西二葉町に建設されましたが空襲で消失してしまいました。

 

山田:退職後はどのようにお過ごしでしたでしょうか?

 

相曾:結婚後仕事を探しました。恩田先生は「はやく赤ん坊をうめ」とおっしゃって就職に反対。夫も積極的に賛成ではなく、子供には恵まれませんでした。専業主婦を続けましたが33年前夫が亡くなりました。夫が亡くなった後 仕事を探しましたが「採用は35歳まで」の時代でした。相曾さんの奥さんから、相曾治子さんになって、自分自身で生きている実感があります。今はボランティア活動に精を出しています。

 

山田:文部科学省は理系への女子の進学率の低さを問題視しており、大学に対策を求めてきています。これにつきまして相曾様は何かご意見はありますでしょうか?自然に任せればいいとかこうしたら増えるのではないかなど。

 

相曾:理系に女性が向かないということはないと思っています。男性にも数学が苦手な人は大勢います。大人たちが「かわいい 女の子」を期待して育てていることが問題だと思っています。私は周りから「女のくせに」と言われ続けました。私の両親は自由にさせてくれました。感謝しています。先日医大入試で不正が行われたという報道がありました。男子の合格点数のかさ上げをしたという。ここまでになるのに70年かかったと思いました。河合塾で女子大の試験問題は優しい。ただ津田塾大は別だとおっしゃったのを覚えております。河合塾には情報が集まっていました。男女の理数科学力差はそうとうなものでした。

 

山田:最後に一言いただけますでしょうか。

 

相曾:女のくせに女のくせにと長い間言われてきました。最近は「目標にしています」という方がいます。私が高齢になって周りが年下ばかりのせいもありますが、人々の感覚が変わってきたと感じます。女子学生が工学部にあふれる日が近いことを想像できます。